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1話 チョコとパンジー《7》

Author: 砂原雑音
last update Last Updated: 2025-03-11 10:16:54

出過ぎたことを言ったんじゃないかと少し後悔しながら一瀬さんの反応を待っていたけれど、彼はあっさりと了承してくれた。

「花の扱いについては、君に任せます」

「えっ? あ、ありがとうございます!」

まさか任せるなんて言ってもらえるとは思っていなかったから、不意のことで背筋が伸びる。

やっと花で役に立てそうな予感がして、嬉しい反面少し緊張も抱える私に。

「それと、三森さん。ブーケなんかは作れますか?」

一瀬さんは、更に緊張するようなことを、言い出した。

「趣味の範囲でならありますけど……売り物にするようなものは」

「お願いしたいことがあるんです」

売り物にしたことは、ないんだけどなー……。

という、私の主張は、綺麗に流されてしまったみたい。

程なくして片山さんが出勤して、ケーキの番重から冷蔵のガラスケースにケーキを移す。

その間に私と一瀬さんは開店準備を整えて、オープンまでに少しの時間を作った。

「折角の花屋カフェですから。それを活かした何かを作れないかと思いまして、ずっと考えていたんです」

一瀬さんと片山さん、私とカウンターを中心にそれぞれ思う場所にいる。

私と片山さんはカウンター内の丸椅子に腰かけて、一瀬さんは作業台に腰を凭せ掛けていた。

一瀬さんが私にお願いしたいことというのは、スィーツのプレートとセットにして出せるくらいの、極々小さなブーケの製作だった。

「スィーツのプレートとセットですから、ミニブーケには殆ど予算はとれないんですが……」

「えっ、じゃあ今朝みたいに処分する切り花からってことですか?」

「いえ、売り物なんですからそれはしません。ですが、とても小さなものでお願いしてブーケの方からは採算は期待しません」

「ってか、ただボケーッとしてるだけかと思ってたけど。ちゃんと考えてたんだ」

それまで黙って聞いていた片山さんの突っ込みに、私と一瀬さんの視線が集中する。

一瀬さんは特に表情を変えることもなく。

「当然です。これでもマスターですから」

と言い、私は可笑しくて口元を抑えて笑った。

片山さんは何かと一瀬さんに突っかかる物言いをするけれど、どうやらそれが二人のスタンスらしくて、少しずつ私もその雰囲気に慣れてきた。

「伸也くんには、ブーケとセットで目を引くようなプレートを考えて欲しいのですが」

「それはいいけど、新しいこと始めても客が来なけりゃ意味ないよ」

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    「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」「うん、それもあるし」自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。どうせ私は子供っぽいですよ。……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま。お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。◇◆◇翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。「おはよ、綾ちゃん」「おはようございます」彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。「……あれ?」間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはし

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《4》

    「え……っと」壁と片山さんに挟まれて、片手は繋がれたままで、逃げ場所がどこにもない。顔に集まる熱を感じながら、俯いて視線を逃がしたのは今度は私の方だった。空いた手が手持無沙汰に忙しなく、横髪を耳にかけて肩にかかった鞄の柄を握る。「嫌?」「嫌、っていうか。あの」ふざけてるのか真剣なのか、いつも片山さんはころころと雰囲気を変えるから真に受けていいのかわからない。ぎゅっと握ったままの鞄の柄を、何度も肩にかけ直した。手を握られたままの片手が、汗ばんできているのを感じて恥ずかしい。「……綾ちゃんから見て、やっぱり俺は軽そうに見えるんだ? だから嫌なの?」そう言った声が少し寂しそうに聞こえて、慌てて視線を戻した。「違います、そうじゃなくってっ!」「じゃあいいよね、行こう?」約束ね、と。私の手を持ち上げて口許に寄せる。「ひゃっ……」指先に、あたたかくて柔らかいものが触れて私は慌てて手を引いた。思いのほか簡単に手は抜けた。「あ、あのっ」「うん?」手は離れたけど、すぐ目の前に片山さんの顔があるこの状況には変わりない。ぐるぐると頭が混乱して、涙が出そうで。「も、帰らなきゃ。電車が」目の前もぐるぐるして、キスされた指先も顔も熱くて。片山さんの顔が、もうまともに見れなくて、横を駆け足ですりぬけて。逃げ出して、しまった。「あ、綾ちゃん!」片山さんの声を聞きながら路地を抜け出し、まっすぐ駅の改札まで走る。定期を出すのに手間取って、つい後ろを振り向いたら。「……っ」片山さんが少し後ろの方で、私に向かって手を振っていた。すごく、優しい笑顔で。多分私が走り去った後も、ちゃんと改札抜けるまで見守っててくれたのだと思うと、また胸がどきどきし始める。慌てて前を向いて駅のホームまで駆け上がったけれど。電車に乗ってる間もその鼓動は収まらなくてずっとそわそわしてしいた。さすがに私でもわかる。片山さんは、本気かからかってるのか兎も角として、私に好意を向けてくれている。家のある駅に着いてからも落ち着かなくて、いつもの倍以上のスピードで帰り道を歩いて玄関に飛び込んで。「あ、おかえり。今日は遅かったね」早歩きで帰ったのに遅いと言われて、それだけ片山さんとゆっくり歩いて話をしていたのだと気づいた。「お姉ちゃあん!」「えっ? 何?」ちょう

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《3》

    外灯や店の灯りを反射して、色とりどりの光を放つ石畳道を進んで行くとそれほど長くかからずに駅につく。まだ人通りも多い時間で、ほんとに送ってもらうほどのことでもないのだけど。話上手な片山さんに乗せられたというべきだろうか。最初の緊張やら戸惑いやらはいつのまにかなくなって、話に夢中で歩調も緩くなる。「綾ちゃんは映画はあまり見ないの?」「最近はあまり。レンタルしてくることはよくありますけど」「じゃあ遊びに行くならどこ行きたい?」「あ、植物園がこないだリニューアルされてそこに今度行く予定なんですけど」「え、誰と?」「お姉ちゃんとです!」「ふうん……」ずっと笑顔だった片山さんが、少し面白く無さそうな顔をした。「『悠くん』は一緒じゃないんだ?」「えっ、どうかな、聞いてないですけど……」話をしたときは私とお姉ちゃんだけだったけど、いざ行くと悠くんも一緒だったりもよくあることだから、本当にその日になってみないとわからない。片山さんの不機嫌の理由は、わからないことはないけれど。それが、ほんとなのかただからかってるのかがわからない。以前は頼りにできる先輩で、男の人だなんて特に改めて思ったことはなかったけど……こういう会話になると、つい考えてしまう。早く、駅に着かないかな、なんて。「じゃあ、さ」「はい?」突然互いの手が触れあって、片山さんの手は少し、ひんやりとしていた。「デートに行くなら、どこに行きたい?」ああ、まただ。また、逃げ出したくなるような空気が漂って、私は手をひっこめようとしたけれどその指先を捕まえられた。「あ、あの、手……」「どこがいい?」「行ったことないから、わかんないです。それより手……」駅はもうすぐそこなのに、こんな際々でまた片山さんは恋愛モードに入ってしまって、私はまた狼狽させられる。「じゃあ、行先俺が決めていい? 今度の定休日空いてる?」「空いてます……じゃなくてなんで行く流れになってるんですかっ」「あ、流されなかったね……残念」あはは、と片山さんが笑って恋愛モードがまた解ける。ちょっとずつちょっとずつ、小出しにされてる気がするのは気のせいだろうか。少し空気は緩んだけれど、その隙にしっかりと指を絡めて手を繋がれてしまった。たかが、手だ。片山さんの手に一切触れたことがないかと言ったらそんなことはない

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《2》

    食器を片付けて厨房を出るまでの間ずっと見られているみたいな気がして、ほんの僅かな時間なのに苦しくなるくらいに居心地が悪い。「綾ちゃん」「えっ」それじゃあ、と声をかけてカウンターに戻ろうとしたら呼び止められてびくびくしながら後ろを振り向いた。「今日、終わったら一緒に帰ろうよ」「えっ、でも。駅と片山さんのおうちと、反対方向じゃ」「いいでしょ、送るよ」「いえ、あの……」狼狽えながらも断り文句を探しているうちに、彼は重ねて言葉をつなぐ。「いいでしょ、俺も綾ちゃんとちゃんと話す時間がほしいだけ」そう言われると、自分が余りにも幼い理由で逃げているだけのように感じてまた、言葉を失った。カウンターに戻った私が、余程憔悴した顔をしていたのだろうか。一瀬さんが少し首を傾げて言った。「どうかしましたか?」「いえっ、大丈夫です! マスター、お食事行ってください!」慌てて笑顔でそう言ったけれど、わざとらしく取り繕ったように見えてしまったのかもしれない。無言で、珈琲を淹れてくれるのを見て、『あ、私の分だ』と、すぐにわかった。案の定、暫くカウンターで立ってグラスを磨いたりしていると作業台にカップを置き「どうぞ」と一言。「……ありがとうございます」一瀬さんの感情の読み取りにくい表情を、最初はすごく怖いと思ったけれど。今は逆に、安心してしまう。厨房へと入っていく背中を目で追いながら、私は珈琲の香りを深く吸い込み唇をつけた。ここで働くまで、珈琲がこんなに美味しいとは思わなかった。どちらかというと少し苦手で、砂糖やミルクを多めにいれて甘くしないと飲めなかったのに、今ならブラックでだって美味しく飲める。それだけじゃない。少しイライラした時や焦った時、落ち込んだ時、一瀬さんが度々淹れてくれる珈琲がなんだか安定剤代わりになっているような気がするくらい。香りを深く吸い込むと、どんなに波立って心も次第に凪いでゆく。そんな風に、感じるようになっていた。「顔はあんなに無表情なのにな」仏頂面で口を真一文字に結んだ怖い顔で淹れているのに。そう思ったら、なんだか少し可笑しくて「ぷぷ」と笑いながら、また一口珈琲を味わった。「それじゃ、お疲れ様です」閉店時刻を迎えて、少しの後片付けを手伝った後はいつもどおり一瀬さんに促されて、鞄を手に取った。一応……無視するわけ

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《1》

    しとしとと雨が降り続く灰色の空の下、紫陽花の鮮やかな発色が心を少し晴れやかにしてくれる。窓の外から見える花壇には、春先のパンジーが終わって以来まだ何も植えられておらず、水を含んだ黒い土から雑草が生え始めていた。「マスター、次はここ、何か植えるんですか?」ダスターでテーブル席を拭きながら、カウンターに向かって尋ねる。「そうですね……秋になったらまた。パンジーか」「チューリップもいいですよ」スペースは結構あるから、両方植えるのもいいかもしれない。どちらも種類豊富な花だから、きっと賑やかな花壇になる。まだ植えてもいないのに、来年の花壇を想像して今からとても楽しみだった。「綾さん、休憩どうぞ」「はい、お先にすみません」一瀬さんに促されて厨房へと入っていく。ランチの時間が過ぎて客足が落ち着いた頃に、片山さんが作ってくれる賄いを交代で食べるのだけど……私は今、この時間がとても苦手だ。「片山さん、お昼いただきます」片山さんとどうしても、二人きりになってしまうから。忙しく何か作ってくれていたらまだ良いけれど、お客が落ち着いた時間なんだから当然、オーダーもない。「はいどうぞ」作業台に丸椅子を寄せて座ると、白いお皿にサンドイッチが乗せられて二つ並べて置かれた。「俺も食べよっと」そして、角を挟んで隣に座る。この距離間と角度が、苦手。向かい合わせに座るなら、作業台を挟むから距離ができる。真横に座られるなら、視線を合わせずにいられるしじっと見られても気付かないふりでいられる。でもこの位置関係では、距離は近い上に視界の隅に常に片山さんがいる。「おいしい?」「はい。片山さんのご飯はいつもオシャレで美味しいです」今日のお昼はアボカドサラダとサーモンの彩り可愛いサンドイッチ。「綾ちゃん、美味しそうに食べてくれるからほんと作りがいある」ほんとにすごく、美味しいんだけど……正直、居心地が悪い。片山さんがサンドイッチを片手にじっと私の方を見てるのが視界の左端に映っていて、つい視線をそちらへ動かすとばっちり目が合ってしまった。「早く食べないとお客さん来たら食べれなくなっちゃいますよ?」「食べてるよ、ちゃんと」私がつい、唇を尖がらせて文句を言っても片山さんは全く動じないし、半分私の方へ向けた身体の角度も変わらない。それどころか、尖がった私の口

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